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野寺町ってどんなとこ?      

「野寺ってどんなところ?」と問われたら、街というよりも田園地帯の中の小さな集落です。平成264月現在、世帯数141世帯、人口650名余、商店といえば昭和の面影を残す鈴木商店と平成25年オープンしたセブンイレブンの2件。  
小さな田舎の集落、誰もが一度はこんな田舎からとび出していきたいと願ったに違いないし、帰って来てやっぱりここは住めば都でいいところを実感したに違いない。 
しかし、その歴史は古い。地名の由来が「野のなかに寺あり」といわれるように、三河一向宗の三ヶ寺の大元、本證寺を語らずに、野寺の歴史を語ることはできない。 
集落の中心に位置する本證寺は、1206年(建永元年)頃、親鸞門侶(しんらんもんりょ)のお慶円(おきょうえん)さんにより創設された寺院だという。 
戦国時代の末期、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元、その配下の徳川家康は、地元岡崎に退却し再起を図った。本證寺は、その初期の頃の徳川家康と三河一向一揆(1563年)で真っ向から敵対した。内堀と外堀を有し、土塁を築き、鼓楼(「ころう」と読み、太鼓が設置されて、緊急事態に対して太鼓を鳴らして知らせる建物)を配した城さながらの城郭寺院で、家康と対等に戦った。その当時の城郭の様式が現存するのは全国的にも珍しく、県の史跡に指定されているという。樹齢800年を数える「イブキ」が天然記念物に指定され、聖徳太子に由来する文化財も豊富である。 
昔から、ここに住んでいる住民にとっては、本證寺の境内で育ち、本證寺の年中行事とともに、一年が暮れていく暮らしだったにちがいない。 
野寺の記憶に残る歴史を辿ると、昭和20113日の三河地震があり、多くの家屋が全壊し、多数の死傷者を輩出した。 
昭和34926日未明の伊勢湾台風にも甚大な被害を被り、電気水道が長い間不通だった。この二つは負の歴史であるが、昭和445月設立のトヨタ関連の合弁会社アイシンAW(エイダブリュ)本社の工場創設は大きく、多くの人がエイダブリュに勤め、いまではテレビのコマーシャルにも登場するほどのトランスミッションとカーナビ生産の成長産業にまで大きくなった。 
桜井駅西土地区画整理事業の施工に伴い、平成18年、大型店舗アピタ安城南店の誘致も大きく、アピタ周辺の活気とともに桜井という地域全体の雰囲気が明るくなった。しかしそれと比例して田舎の安全なまちにも犯罪が発生するようにもなってしまった。 
今年、戦後70年の年月を刻もうとしているが、ずっと野寺を見守ってきたのが、鈴木商店である。先代の定市さんから現在のふうちゃんに至るまで、今なお、近隣の食卓に手作りの食材と惣菜を提供してくれている野寺に欠かせない存在である。 
こうして振り返ってみると、野寺って、住みやすいとこだし、このコミュニティーをずっと受け継いでいきたいと思うのは私だけではないでしょう。