渥美 清 (あつみきよし、昭和3年生まれ)
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渥美清であるために様々なことを諦め、天職の「寅さん」を演じきって、静かに消えて逝った

 平成26年10月作

「俺は、長い長い一本の映画を何十年も掛けて撮っているんだよ」 

渥美清の言葉を女優・倍賞千恵子が紹介したのは、平成8年8月13日。松竹大船撮影所で行われた「渥美清さんとお別れする会」での弔辞。

夏の日の午後、寅さんを見送ろうと集まったファンは36000人。41歳から68歳までの27年間、「車寅次郎」を演じ続けた国民的スターにふさわしい盛大な会でした。 

「お別れする会」の7日前、荒川区の町屋斎場で参列者3人という静かな葬儀が行われました。亡くなったのは田所康雄。「車寅次郎」を演じ続けた「渥美清」を演じ切った男です。 

昭和3年東京生まれ。小児関節炎、小児腎臓炎と、身体の弱い子どもでした。

コメディアンとして浅草フランス座専属となった翌年、結核に。入院生活を余儀なくされ、26歳で右肺を摘出。兄も25歳のときに同じ病気で亡なっている。復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり、過剰な程の摂生に努めた。 

大きな転機となったのは、昭和43年40歳の時。山田洋次脚本のフジテレビドラマ『男はつらいよ』のスタートです。当初は「そこそこの作品」の一つに過ぎませんでしたが、最終回の内容に抗議の電話が殺到。「寅さんがハブに噛まれて死ぬ」という結末があんまりだと評判になり、翌昭和44年の映画化へとつながる。

『男はつらいよ』はやがて正月に欠かせない映画になりました。 

渥美は、その年に結婚していますが、私生活を親しい友人にも一切明かさず、家族には「渥美清」ではなく「田所康雄」で接し、映画製作のスタッフには、「田所康雄」を一切見せずに「寅さん」を演じたのです。 

昭和56年から亡くなる前年まで、渥美清の付き人を務めていた篠原靖治は、著書『渥美清晩節、その愛と死』で渥美の晩年の姿を書いています。

≪渥美さんは、映画の寅さんのように、瓢々と、楽天的に晩年を生きたわけではありません。渥美さんの晩年は「老い」や「病」との凄絶な戦いの日々でした。世のなかの多くの人と同じように「死ぬのは、いやだねえ」と言いながら、やがて力尽き、そのときを迎えたのです≫と。 

平成6年、主治医に無理だと指摘されながら寅さんを演じ続ける渥美は、寅さん48作のロケ中、篠原にがんであることを打ち明ける。

セットに入るときは篠原の肩につかまり、宿では倒れるように横たわり、足元もおぼつかない。ファンに手を振る余裕もなくなり、つぶやいた言葉は「かんべんしてくれや……」と。 

亡くなる前年の秋、『男はつらいよ』全作を撮り続けたカメラマン高羽哲夫が同じ肝臓がんで亡くなった時の葬儀、≪「オレが死んだら、やっぱりみんなに、こうやって見られるのかい」ってね。いやだねえ。本当にいやだ。オレはどれだけよく知っている人にでも、そんな顔は見られたくない≫と。

お棺を覗き込んで別れを告げる人びとの様子を見た渥美は、≪オレは、自分が死んだとき、他人に顔を見せたくない。できることなら、全然知らない所へ行って、ぼとぼと歩いて、そのままパタリと倒れ、誰も知らない所で枯れていきたい≫と篠原に漏らします。≪それでオレはね、ひとり静かに歩いていって、パッタリと倒れるんだ。そうするとね、枯れ葉がどんどん落ちてきて、オレはやがて枯葉に包まれて、かくれんぼ≠オてるみたいに見えなくなってしまう。そうやってオレは、どこの誰だかわからないように死んでいくんだよ≫と。  

平成8年8月4日、転移性肺がんのために死去。享年68歳。 

亡くなった二日後に知らされた山田洋次が駆けつけたときは骨になっていました。 

【略歴】 

小学校の頃、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の病を患う  

学校は病欠が多く、欠席中は一日ラジオで落語を聴いて過ごす 

26歳と時、肺結核で右肺を切除し、約2年間の療養生活を送る 

復帰後すぐに今度は胃腸を患い、1年近く入院する 

昭和43年、40歳の時、フジテレビにて、『男はつらいよ』が放送 

翌44年より、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズ始まる 

主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける 

63歳で肝臓癌が見つかり、66歳には肺に転移 

47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていた 

48作に出演できたのは奇跡に近いとのこと 

68歳没。家族だけで密葬、訃報は3日後の8月7日に松竹から公表