槍ヶ岳
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タイトル; 
私と東日本大震災 
 平成23年6月 作 
   


被災地の南三陸と陸前高田を歩いた。3・11のあの日以来、次から次へと飛び込んでくるライブの映像の衝撃は、すぐ隣の街で起こっているような印象を受け、ついに連休、陸奥(みちのく)の三陸へと足を運ばせた。この春、私の思考の半分くらいが大震災の惨状に翻弄された。これはただ事ではないと。 

この大震災は、一体どういう意味を持っているのか。あの日の光景は、私たちに何を問いかけているのか。神の怒りの現われか、天罰か、それとも科学で説明できる千年に一度の自然現象の一つでしかないのか。「想定外という言葉が何度も耳に入ってきた。想定外」とは何か。もともと生きものの世界、つまり自然界には「想定外」はありふれている。そもそも思い通りにならないものだから。ただ、人間の作る機械の世界は想定内で推し量れ、成り立っている。生きもの・自然界を文明と同じように思い通りになると錯覚していたのか。これはこの先、どんなに科学技術が進歩しても、自然の奥深さ、自然への畏れ・畏敬を忘れてはいけないことを物語っている。  

さて、この大震災と自分はどのような関係があるのか。この大震災は、私たちを変えるか。日本と日本人のあり方の何かが変わらなければならないのか。これは私に大きな命題として突きつけられた。あの大震災の混乱の中でも、被災者は品位と礼節を持ち続け、略奪も暴動もなかったという。世界の常識からは考えられなかったことらしい。いま私が感じているこの大震災への関心や同情・共感が東北の被災者との深い関わり・人間的な関係性へと発展できるか。遠くの陸奥(みちのく)の大惨事と私たちとの関係性が深められ、同じ日本人としての関係性を共有できる共同体意識を深めることができるか否か。それは、三陸の被災者が被災直後の中で共同体意識を再生させたことと並んで、もう一つの日本の強さを表わす可能性ではないだろうか。図らずも1854年の安政大地震以来の東海・東南海・南海の3連動地震が明日起こってもおかしくない。明日はわが地域の番かもしれない。これは日本列島の宿命である。   
                            司法書士 矢田良一