槍ヶ岳
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『人は、なぜ、学ぶのか!』 

 平成20年6月作


「なぜ、学ぶのか?」こんな問いに私たち親はどう答えられるだろうか。小中学生の子どもたちは、「勉強しなさい」と何度もいわれて育ったと思うが、あらゆる物に恵まれて育った今の子どもたちは、「どうして勉強しなければならないのか」と真剣に考えたことがあるだろうか。 

実際、そんなに勉強しなくても生きていけるのも事実である。お金さえあれば、コンビニ・スーパー・百貨店で、あらゆる食べ物・日用品からブランド物の洋服・絵画まで、一切が手に入る。お釣りを間違えない程度の算数・計算ができれば足りる。しかし、たとえば気に入った絵画を買ってきてリビングに飾ったとしても、その絵画の作者がどんな人で、いつ、どのような状況の中で描いたか、知らないことは、一つの絵画を買ってきても、いずれ些細なできごとに終わってしまう。何か思い立っても、基礎知識・教養がないと思いついたことが面白く膨らんでいかない。 

最近わかったことであるが、「なぜ、学ぶのか?」とは、「将来どんな自分の姿を描きたいのか」につながることである。たとえば、ピアニストになりたければ、音楽の広い基礎知識から演奏旅行のための語学・話術、さらに作曲のための豊かな教養・芸術的センスも求められるかもしれない。好きなことを仕事にしてどこまでも取り組むことは、それを支える十分な勉強が求められる。つまり、こうありたいという自分の姿を描くには、相当な基礎知識・教養の支えがなければ実現しないだろう。そして、人は誰でも自分の中に、人より抜きんでているものを一つ持っているものである。神は、誰にも等しく、一つの才能を授けて、生を与えなさっている。その隠されている才能を、いつ、どのようにして発見できるか。 

さて、私の友人が、大学生活を終えようとしている娘たちと最後の家族旅行のつもりで、10日間、イタリアへ行っている。絵画・彫刻・ルネッサンスの国、サッカー・セリエAの国、パスタの国、これらそれぞれを愉しむには、出かける前に相当ガイドブックを研究しておく必要がある。なぜなら知識があると出会いが広がり、さらに深まり、面白くなる。これは非常に大事なことで、いろいろなことをたくさん知っていることは、出会うできごと・出会う人・その時々のステージをいつも愉しめる。つまり、様々な知識があることは、人生を面白くでき、毎日を愉しめ、世界が広がっていくことである。逆に知識がないと唯唯、すれ違ってしまうばかりである。 

「なぜ、学ぶのか?」それは学んでいることは、知らないことより、ずっと人生を愉しめ、面白いことに巡り合える。人生を愉しむため、自分の中のいろいろな可能性を描くために、私たちは学ぶのである。