美空ひばり (みそらひばり、昭和12年生まれ)
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タイトル; 

命を削ってスターであり続け、燃え尽きた 

 平成26年10月作

昭和12年生まれ、九歳でデビュー。 

美空ひばりは、昭和62年4月、50歳の時の全国ツアー中に福岡県福岡総合病院に緊急入院。病名は大腿骨骨頭壊死と肝硬変、脾臓肥大。

診断した医師によれば、白血球も赤血球も少なく、内臓もガタガタ。激痛で歩行もままならないのに、ひばりは仕事を続けていました。しかし、直接死に至る病でないがゆえに本人に告知されますが、死病でないがゆえに、さらに無理をしてしまったようです。

この絶対安静の100日の入院が「40年ぶりの長期の休み」だったというひばり。彼女は、加藤和枝という一人の病人になって療養に徹することはできなかった。 

このあと、東京ドームのこけら落とし≠ニなる翌昭和63年4月の復帰コンサートに向けて、本格的な準備が始まります。復活を宣言する特別なコンサートですが、「深刻な慢性疾患の療養中」だった。立っているのも辛いのに「元気で歩いている姿を見せなければ」という一念で、リハーサルのとき5分かけて歩いた100メートルの花道を、本番では2分で歩いたひばり。 

伝説の東京ドーム「不死鳥コンサート」は、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱し、大成功のうちに終わり、次のスケジュールはあっという間に埋まります。その後の活動は、楽屋にはベッドと医師、ステージには座って歌うための椅子。出口には救急車、移動はヘリコプター。 

すでに歌えるだけの肺活量はないのに、ひばりは舞台に立ち続ける。『川の流れのように』もこの年にレコーディングされています。 

翌平成元年2月8日、体調不良で再入院。容態が急変したのは6月12日。美空ひばりの死因は間質性肺炎による呼吸不全。享年52歳。 

一時、歌手生活をあきらめ、療養に専念していれば、もっと生きられたかもしれません。命を削って「スター」であり続けた死に方が、良き終わり方かどうかは、本人が決めることでしょう。 

妹の佐藤が明かす、姉ひばり10代の夏の家族旅行のエピソードでのこと。どこへ行ってもファンがついてくるものの、一家で楽しいひとときを過ごしていた琵琶湖。水遊びをしていたひばりは、いつのまにか深みにはまってしまいます。彼女は泳げないのに助けを呼ばず、声すら出しませんでした。幸い、父親が気づいて事無きを得ますが、死んでしまったかもしれません。いぶかしがる妹に、ひばりは後にこう語ったといいます。≪わたしはスターでしょ。あんなに大勢のファンの前でみっともない姿を見せられなかったのよ≫と。 

【略歴】 

昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人、愛称はおじょう 

12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット 

翌年『東京キッド』に出演し、映画とともに主題歌も大ヒット 

25歳の時、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚 

わずか2年あまりで離婚 

44歳の時、ひばりを支えていたマネージャーの実母が癌で死去 

昭和62年、50歳のときの全国ツアー中に福岡総合病院に緊急入院、病名は大腿骨骨頭壊死と肝硬変そして脾臓肥大で、3か月余り入院 

翌63年4月11日、東京ドームのこけら落としとなる復帰コンサート「不死鳥コンサート」で、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱 

同年10月、『川の流れのように』をレコーディング  

翌元年6月死去、死因は間質性肺炎による呼吸不全、享年52歳 

没後の翌月7月、女性として初の国民栄誉賞を受賞