剣岳
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 なぜ、「不安」なのか?
平成24年年賀 作 

多くの人が新しい年を迎えて、ホッとしてみえるだろう。また、未だ二〇一一年が終わらない人もみえるだろう。昨年のかつてない試練、日本人の記憶に永く刻まれる震災の中、私たちは今なお、脆弱であることを思い知らされました。 

それは「不安」がさらに強まったのか? 兼ねてより共同体が崩れ、社会の分断化が進んでいる中、現代は、「不安」が一時的なことではなく、生活の中で常態化してしまっている。今直面している「不安」は、一体どこから来るのだろうか。 

一つには、福祉や教育など従来は市場になじまないとされてきた領域を市場原理で再編成しようとする動きが進み、雇用や社会保障が不安定になって、それが人々の感受性を常に不安の状態に置いているのでしょう。 

二つには、物質的な豊かさがもたらす社会は、人々の協力を必要としなくなってしまった。平時では、お金さえあれば、誰とも協力し合わなくても、生きていける状況が作られてしまう。しかし、ひとたび非常時、あるいは弱者に立たされた時やケアが必要な高齢期を迎えた時はそんな訳にはいかないのだが。 

さらに、かつては、自分の生活とメディアとの距離を十分に取っていた。職場でも家庭でも地域でも孤立している現代では、自分の生活に支え合って生きている実感をもてないから、メディアが伝える情報を相対化することができない。つまり、メディアが犯罪を強調すると、それが直接、自分のまわりの恐怖になってしまうのだろう。 

さて、あの未曽有の大震災では、通信、電気、水道等の様々なシステムが、想定外の事態がおきた瞬間に崩壊した。しかし、その極限的な不安の中、見知らぬ人との間で協力し合うコミュニティーが生まれ、私たちが失いつつあったものを、震災は、改めて突きつけていた。支え合う人間の働きは、どんな事態でも力を発揮する。とすると私たちの求める社会は、どんな方向に向かうべきなのか、少し、明らかになったようです。 

現代の「不安」にとらわれない生き方とは、インターネットやブログではなく、互いに顔が見える関係で問題意識を共有する仲間をつくる。メディアで結ばれる一方通行ではなく、自分の考えがこうで、あなたの考えがこうでと、対話の仲間を持っていることである。そこから生まれる、時にしがらみにうっとうしくもあるが、持ちつ持たれつという関係こそが、「不安」にとらわれない生き方・生活ではないだろうかと痛感する年始です。 

昨年度、多くの方にお会いでき、公私ともども大変お世話になりました。 

平成二四年が、平和で安全な年であることを願っています。 

本年もよろしくお願いします。     
                                司法書士 矢田良一