白馬岳
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タイトル; 
 私の髭物語と東日本大震災 
 平成23年5月 作 

一度無精髭を生やしてみたかった。かっこいい髭ではなく、かっこ悪い髭でなくては意味がない。日頃の自分に課せられたる呪縛から解放されたかったのだ。実際に無精髭を生やしてみてわかったこと、自分はまわりの人とは違う、変わり者であることを宣言しているようなものだった。日本では髭文化はまだ定着していない。友人には、「結構、いけるよ」と半分面白加減に歓迎されても、家族をはじめ、身近な人にはまったく好かれなかった。  

振り返ってみると、この半年間、この髭のお陰で誤解されることばかりだった。始めて会う女の人には、こんな無精髭の人に権利書を預けても大丈夫だろうかと警戒されたときは非常に困った。それでも伸ばし続けた。公務で県の選挙推進協議会総会に行った。まわりは、70歳近くの落ち着いた人ばかり。帰りの電車の中、一緒に行った年配の女性に、「私はこれから職場に戻ります」といったとき、「おたくまだ仕事しているんですか」と。65歳を超える年金生活者と間違えられた。心の中では、「くそー、俺はお前らと違って本当は若いんだぞ」と。人間、わかっていても時々馬鹿なことをやってみたくなる生き物なのだ。  

さて、青春の始まりは一様に十代に始まるが、青春の終わりは人それぞれ。青春の末期が人によって長い。二十代で青春を終える人もおれば、五十代になっても青春の末期をやっている人もいる。私もどちらかといえば、後者の部類に近いかもしれない。しかし、いつまでも若くはない。ギアチェンジしなければ、この先いつか破綻するにちがいない。無精髭が老いの自覚を求めていたのかもしれない。  

いまの私の大きなテーマは、「老いることをどのように受け止めていったらいいのか、どのように老いるか」と向き合うことにある。この先できることも、時間も限られてくる。やりたいことを絞り込まなければと。このテーマに五十代後半、真剣に取り組みたかった。無精髭は、なりふり構わず一つのテーマに向き合う私の決意の表れであった。 

しかし、それも一変した。あの「3・11の大震災」の衝撃によってすべての予定が変わってしまった。あの日の光景は、何を意味するのか。神の怒りの現われか、どこぞの知事が言っていたように天罰か、それとも科学で説明できる千年に一度の自然現象の一つでしかないのか。「この震災をどのように受け止めるか。日本と日本人の何が変わらなければならないのか。」今年の私のテーマは、この問いに満たされてしまった。私の想いは、大震災の怒涛の大津波に当分の間翻弄されていくだろう。 
                            司法書士 矢田良一