大原麗子 (おおはられいこ、昭和21年生まれ)
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晩年のいくつかの不可解な行動と淋しい孤独死。大原麗子は終わるとき何を思っただろうか?

 平成26年10月作

美しくない女性にとって思春期はなかなかに辛い季節ですが、美しい女性にとっては更年期のほうが辛い季節ではないでしょうか。

平成21年8月3日、映画、ドラマ、CMで活躍した女優が62歳で亡くなりました。死因は不整脈による脳内出血。昭和21年東京生まれの大原麗子です。 

警察と弟・大原政光によって自宅で亡くなっている大原が発見されたのが6日、解剖の結果、死亡は3日前とわかりました。

ピンクのスウエットの上下姿で、寝室のベッド脇に倒れていました。三日間、一人横たわっていたことになります。 

『孤独死』という点がクローズアップされ、大原が患っていた「ギラン・バレー症候群」にも注目が集まりました。運動神経が冒され、筋肉を動かすことができなくなる特定疾患で、大原の発症は昭和50年、28歳のとき。およそ9ヵ月半の治療ののちは、『獄門島』『男はつらいよ』などの映画からNHK大河ドラマ『春日局』、橋田壽賀子スペシャル『源氏物語 上の巻・下の巻』などおよそ80本のドラマに出演し、黄金時代を演じる。 

仕事が減った頃の大原は50代で、世間はトレンデイードラマ全盛期。主役は20代に移っていましたが、大原はそれを潔しとしなかったのか、脇役女優にはなりませんでした。 

彼女は若い頃から、演技に妥協しないことで知られていました。立派なプロ意識ですが、脇に回る年齢でいかなる妥協もしなければ、「使いにくい女優」とされます。もともと強かった序列へのこだわりは、やがて固執になり、常軌を逸していきます。 

大原の代表作である大河ドラマ『春日局』の脚本を手がけた橋田壽賀子は、突然お電話をいただき、以前、自分が演じた役を別の人が演じることになったことについて「納得できない。反対だ」という趣旨のことを延々と話されていました。 

姉妹のようなつきあいをしていた浅丘ルリ子は、大原へのお別れの会の弔辞でこう述べました。「夜中の2時、3時におかまいなくかかってくるあなたからの電話、長々と人様や自分の不平不満を訴えるだけの一方的な長電話。こんなことが何回も重なると、あなたの声さえ聞いているのも辛くて、『もう麗子からの電話には出たくない』と思ったものです」と。 

27歳の時に俳優・渡瀬恒彦と結婚し、34歳の時に歌手・森進一と再婚し、それぞれ4年という結婚生活で、子どもはなく、晩年の大原は孤独でした。仕事をしなくなれば、関係者は離れていきます。親しくしていた友人たちも病的な電話を受ければ距離を置きます。 

亡くなる少し前、弟・政光が何度か電話をかけるも大原は不在。8月に入っても連絡が取れず、警察に連絡を取ったことが死亡発見につながります。自宅の冷蔵庫のなかに残っていたのは、スプーンで削った大きな西瓜一つだけであったという。生活の匂いが失われ、孤独死の現実が想像できます。 

司法解剖のあと、大原の遺体は母と弟によって荼毘に付されましたが、8月23日、青山葬儀所で行われた「お別れの会」は、生前の孤独とは打って変わって華かなものであったという。 

【略歴】 

昭和39年、18歳にてテレビドラマでデビュー 

27歳の時、俳優の渡瀬恒彦と結婚したが、5年後に離婚 

29歳の時、神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症し、9ヵ月半の治療ののち克服

復帰後、『獄門島』・『男はつらいよ』のマドンナ役を2度などの映画からNHK大河ドラマ『春日局』、橋田壽賀子スペシャル『源氏物語上の巻・下の巻』などおよそ80本のドラマに出演するなどの黄金時代 

34歳の時、歌手・森進一と再婚したが、5年後に離婚 

34歳から10年間、サントリーレッドのCM「すこし愛して、なが〜く愛して」 

47歳のとき乳がん手術を受ける 

平成21年、不整脈による脳内出血にて、死亡推定日時8月3日、62歳で死亡 

同年8月23日、東京の青山葬儀所で盛大な「お別れの会」