新藤兼人 (しんどうかねと、明治45年生まれ)
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映画をつくるしか能のない新藤監督、生涯恵まれた状況でなかった故に100歳現役の大往生の終わり方を実現できた。

 平成26年10月作

≪年をとれば、ものわかりがよく、人生を達観したように落ち着き、植物のように枯れていくものではない。人間、老人になったからといって、そう変わるものじゃない。・・・性欲だってある。死ぬまであるんじゃないかな。もちろん実行力はともなわないが≫

映画監督の新藤兼人は、著書『100歳の流儀』でこう述べています。 

平成24年5月29日、100歳の誕生日のおよそ1ヵ月後に老衰のために亡くなるまで、ひたすら映画を撮り続けました。亡くなる前年の作品『一枚のハガキ』をもって最後の引退宣言をしましたが、死ぬまで次の映画の構想を練っていました。 

明治45年、広島の農家生まれ。父が借金の保証人になったことで、当時新藤中2であった頃、一家は離散状態になり、シナリオライターを志して映画の世界に入ってからも、貧しい下積み生活が続きました。 

自分が老いれば老いたなりの作品を撮り続けるのは、呼吸するかのごとくでしょう。≪わたしは、映画をつくる仕事があるから、生きてきた。映画をつくる仕事があるから生きている。であるならば、生きている限り、映画をつくるという仕事をつづけるのが当たり前ではないか≫と書いたように。 

新藤が死に直面したのは、乙羽信子の肝臓がん発病でした。手術をしても余命は1年か1年半と宣告されたとき、新藤は考えます。

≪役者は仕事をしてこそ役者である。とはいえ、一方ではこんな声もある。今まで十分やってきたのだから、余命を静かに過ごさせてあげるのがいい。人間としての最後を、おいしいものを食べ、見たいものを見て、平穏な日々を過ごしたらどうか。しかし,乙羽さんがそんなことをして、しあわせだろうか?≫と。病をおして撮影はスタートし、老いと生と死を扱った作品『午後の遺言状』は成功をおさめます。 

乙羽信子と出会ったとき、新藤はすでに40歳で妻も子もいました。二人はそれから長い不倫関係を続けます。離婚、元妻の死を経て入籍したのは26年後で、夫婦としての暮らしは16年間で終わりました。乙羽が70歳で逝ったとき、82歳の新藤はこう打ち明けます。 

≪わたし自身の気持ちでは、乙羽さんの死を受け入れる準備はできている感じがしていたが、そんな甘いものではなかった。ひとりになると、奈落のような孤独感に襲われた≫と。 

新藤は健康で、82歳で乙羽が亡くなってからも一人暮らし。健脚が自慢で、赤坂から銀座、青山まで歩き、食欲旺盛。それからも新藤は、車椅子に乗っても映画を撮り続けました。 

高倍率の試験に合格、映画会社に就職してすぐ助監督となり、その映像美で「世界の巨匠」となった黒澤明とは対照的に、薄い伝手(つて)を頼ってなんとか映画会社に潜り込み、フィルムを乾燥させるなどの雑用係を経て、独立プロで映画を撮り続けた新藤。 

亡くなる半年前の1月、≪映画のことを考えると眠たくなる。目が覚めたら今度は何を撮ろうかな、撮る時間があるかなという感じ。ある日考えが止まると死ぬ。幸せな一生≫と語っていたと。 

【略歴】

映画監督で脚本家、広島県名誉県民

広島の豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳、中2の頃に一家は離散

刑事をしていた兄の伝手を頼りに、京都のキネマ現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタート

長い下積み時代の後、昭和19年、32歳ながら日本海軍に召集され、海軍二等兵として入団し、上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなるほど叩かれ続けた。同期の若者は大半が前線に送られ100名のうち、94人が戦死

昭和20年終戦後、脚本家としてデビュー。『愛妻物語』で映画監督デビューし、昭和27年原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。世界で反響を呼び、多くの賞を受ける 

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、昭和35年に撮った台詞(セリフ)のない無言の映画詩『裸の島』はモスクワ国際映画祭グランプリを獲り、新藤は世界の映画作家として認められた。40歳で出会い、66歳で乙羽信子と結婚 

社会派作品を次々と発表し、『第五福竜丸』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など社会に問題提起を投げかける作品を発表 

最高峰の脚本家であり、社会派監督として名を馳せ、さらにプロデューサーとしての業績を加えると、日本映画への貢献度は計り知れない