石原裕次郎
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タイトル; 
 不告知の時代、がん告知から守られたタフガイ。
裕次郎はその時を迎えたとき、何を思って逝ったのだろうか?
 平成26年10月作 

昭和を語るときに必ず登場する二大スターは、石原裕次郎と美空ひばりです。 

昭和62年7月17日、裕次郎が肝細胞がんで、平成元年6月24日、ひばりが間質性肺炎による心不全で亡くなっていますが、ともに享年52歳でした。 

「死ぬときは誰もが一人」と言われますが、その時、誰がそばにいるかで死にかたの趣は大きく変わってきます。 

裕次郎に子どもはありませんが、まき子夫人、政治家で兄・慎太郎がおり、「社長が命」という、通常の会社組織とはまるで異なる結束力を持つ、石原プロモーションの仲間がいました。 

「本人には告知しない」という昭和の時代、たくさんの人に囲まれ、守られた裕次郎は、どのように死を迎えたのでしょうか。

昭和9年生まれ。「タフガイ」と呼ばれた裕次郎ですが、その実、病や怪我に悩まされた生涯でした。 

黄疸が出たのは高校時代。スキー事故で複雑骨折し、全治8ヵ月で俳優生命が危ぶまれたのは結婚間もない27歳。肺結核で8ヵ月の療養生活を強いられたのは36歳のときでした。昭和54年、舌がん発覚。裕次郎は44歳になったばかり。 

翌々年、46歳の裕次郎は、胸部解離性大動脈瘤で緊急入院。

手術をしないと死につながるが、手術の成功率は5%を切るという深刻な状況。この時も病状は本人に知らされませんが、手術は成功し、「奇跡の生還」と大々的に報道されました。 

3年後の昭和59年3月の検診で肝臓がんが発覚。まず知らされたのは、石原プロの小林正彦専務、渡哲也、撮影監督の金宇満司(かなうみつじ)の三名。 

著書『社長、命。』で金宇が、≪あっさりした性格の裕次郎に告知などしたら、「いいよ、面倒だから。どうせ死ぬんだろう」と、闘病をやめてしまうだろう≫と語っています。 

小林専務は、≪石原裕次郎がガンと知らされて、“よし、頑張って生きるよ”と言う人ですか? あれもダメ、これもダメと制約されて、“それでも俺、生きていくよ”と言いますか? 言うわけがない≫と。 

まき子夫人は「動揺して態度に出てしまうだろう」という男たちの判断で、最初は肝臓が悪いとの曖昧な説明を受けます。 

まき子夫人が介護の日々を綴った著書『妻の日記』の冒頭には、≪私は裕さんに最後までガンであることを告げませんでした。告げなくて良かったといまも思っています≫とあり、著書『裕さん、抱きしめたい』には、≪ガンを告知されたら、あの人の神経ではその日から参ってしまったに違いありません≫とも書かれています。

裕次郎の場合、まき子夫人、石原プロの面々、母が、「告知すれば闘病をやめてしまう」と見ておりました。 

亡くなる52歳の年、慶鷹義塾大学病院に入院しますが、その時もまき子夫人に、≪そうか、じゃ、いいよ。おまえのために入るよ。そんなにいうんだったら、おまえのために入るよ≫と、自分の意思ではないと念を押すのです。入院の日、どんなに具合が悪くても必ず着替えたオシャレな人は、パジャマとガウン姿で車に乗り込み、≪もうこの家には帰って来ないだろうな≫と言い残したといいます。 

昭和62年7月17日、裕次郎は、肝細胞がんで息を引き取りました。享年52歳。8月11日に行われた本葬には、35000人が参列。 

≪生きていながら死んでるやつが多い世の中で、死んで、また生き返っちゃったという、このすごさ≫とは、親友でライバルの勝新太郎の弔辞です。 

【略歴】 

愛称は、タフガイ・裕ちゃん  

俳優 歌手であり、石原軍団総帥で石原プロモーション初代社長 

石原慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー 

『狂った果実』では、後に夫人となる北原三枝を相手役に主演 

昭和45年以降は、『太陽にほえろ!』等、テレビドラマで活躍 

幼少時代から肝臓が悪く、高校生の頃に黄疸が出る 

27歳の時、志賀高原スキー場で、スキーヤーと衝突して複雑骨折 

36歳の時、肺結核により入院 

44歳の時、舌がん発覚。石原本人には告知されなかった 

2年後、胸部解離性大動脈瘤で緊急入院したが、奇跡の生還 

昭和59年3月、肝臓がんが発覚したが、石原本人には最期までガン告知せず 

2年後、ハワイで静養 

翌62年4月ハワイから帰国後に慶應義塾大学病院へ検査入院 

同年7月17日、肝細胞癌でこの世を去る、享年52歳